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 ←第二部 序章 クミコからの手紙 →第二部 第二章 新宿騒乱 【後編】
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リフレクト・ワールド(The Reflected World)

第二部 第一章 新宿騒乱 【前編】

 ←第二部 序章 クミコからの手紙 →第二部 第二章 新宿騒乱 【後編】
 あの感触はそう。自分の住む世界と、自分達とは異なる肉体を持ち合わせた者達の住むこの世界とを分け隔てた門、ポルタ・モルトゥスを突破し、この世界に降り立った時のそれと酷似していた。いや、それそのものだった。一瞬のことではあったが、トルソはしっかりと覚えている。
 耳障りな笛の音らしき電子音と共に、大勢の、様々な格好をした者達が動き回っている。だが、その服装は自分がいた世界の者のそれとは、かなり様相が異なっている。その人数は尋常なものではない。一体どれだけの者達がここにいて、歩き、言葉を交わしているのか、トルソには全く想像だに出来なかった。
 人波の合間には紺色めいた色の鉱物らしきもので路面を舗装された道が通り、これもまた様々な形や色をした金属性の車両が走り抜けている。見慣れた車両と異なるところは、車輪の存在だった。ウォラリス・テクタイトと言う通電浮遊性を帯びた鉱石を主にした移動原理とは全く異なる、何ともスムーズさに欠けた動きをする車両が、それも夥しい数で、悪臭を放つガスを噴き出しながら、三色の色別で表示される標識に従って動いている。若い男と女とが数人で笑いながらこちらを向いているという派手な絵柄と共に、何かしらのけばけばしい色の文字状のものを胴体に塗られた大型車両がやって来た。それは激しいリズムと重低音を周囲に撒き散らしながら接近してくる。トルソはそのけたたましい物音に耐えられず、思わず両耳を塞いだ。
 人混みの合間から見える三色標示の代物の下には、やはり何かしらの文字が見える。その文字はここに来て以来、目にすることは二度目ではあるが、そして須藤のマンションにおいても見掛けてはいるが、ついぞその読み方は分からない。ただ、そこにはトルソも見慣れたラテン文字による表記もある。
「Meiji Dori」
 メイジドオリと読めたが、それが何を意味するのか。恐らくは今自分がいるこの場所のことを指すのであろうか。その他、「シンジュク3チョウメ」なる標示もある。
 壁に取り付けられていた看板らしきものに「伊勢丹」なる見慣れぬ文字が彫られている、その装飾を施された建築物を背に、トルソは向かい通りにある建築物に視線を送った。後ろにある建築物とは趣を異にした、石造りらしいその建築物には、「○一○一」という、幾何模様にも似た文字だか暗号だかが見えた。
 周囲の者達は、自分の姿を見ても殆ど関心を示していないようだ。だが、何人かがこの手元を見詰めている。トルソはその手を見た。剣を握ったままだ。
 そうだ。この世界の者はこうした武装を全くしていないのだった。トルソはその剣を鞘に収め、そして更に黒の革袋に収め込んだ。そして人波に合わせて、数歩歩いてみる。そして四つ角を左折した。車両が走り抜ける道の幅は若干細くなり、人々の歩く歩道も更に狭まる。最初に目にした建築物の外壁に沿って歩く。こんな狭苦しい道をよくもこれだけの人数がひしめき合って歩くものだと、トルソは些か不可思議な気分に陥った。
 道なりにトルソは更に歩いてみる。目の前には、けれんの濃い看板や標示を携えてはいるものの、何処となく無味乾燥な印象を与える建築物が所狭しと建ち並んでいる。見上げると、装飾めいた四つの大きな文字が赤をバックにして、白地で表記されている看板が見えてきた。
 別の標識が見える。「ヤスクニドオリ」と読むらしい。○一○一という幾何模様が再び目の前に現れた。併せて「MEN」の文字。そこにはトルソと同じ人種と思わせる女性が、見慣れない服装を纏った姿で、実に精密に描かれていた。
 もう少し歩いてみる。「新宿五丁目東」と書かれた三色標示柱……信号機が見える。トルソはふっと自分の右横を見てみた。そこには男児と女児をかたどったブロンズ像が立っている。その像の足下には、勿論トルソには読めないのだが、「交通安全の誓い」と彫られている。だが、意味こそ分からずとも、トルソには次の「1996 11 18」の数字だけは読むことが出来た。
 何と言うことだろうか。須藤と共に帰った筈が、今再び現世の地を踏む羽目になってしまっている。自分が何故ここにいるのか。そう、アラキノフスで遭遇し、交戦状態となった、あの黒き者の力のせいに相違ない。
 数人の若者の集団がやって来て、トルソにぶつかり、「何だこの外人、邪魔な……」と悪態を付いて去って行った。その瞬間、トルソの体にあの電撃にも似た衝撃が走った。おもむろにトルソはぶつかられた腕をさすった。
 この世界のものの体が自分の体と接触している。先程は、剣を睨む者達もいた。そう、トルソは今回、他の者達に目視されているのだ。それが、須藤と共に発った時に、周囲の者達にグリフィスもろごと目撃されたことが、この今でも尾を引いているのであろうか。詳しいことは分からないが、少なくとも、今トルソの存在は、須藤が口にした「ユウレイ」とか言う不可視の存在ではないのだ。
 となると、自分をここに引きずり込んだあの黒き者は何処にいるのか? あの者ももしや、この世界の者の目に映る存在となっているのであろうか。

 その時、トルソは異様な、そして刺す様な、実に強烈な視線を感じた。
 街路樹の並ぶ中央分離帯の向こう、三色標示の信号機が赤色を示し、大勢の者達が立ち止まっているその中に、それは立っていた。真っ黒い布を纏い、周囲の者達よりもその背は高く、肩から上が人混みの中からにょっきりと上に飛び出している。
 その黒き者は両腕を上げた。
「みんな、そこをどけえっ!」
 トルソは精一杯の怒鳴り声を上げた。
 その直後、その者の両腕は「鞭」のようにしなり、長く伸びると、トルソのいる傍まで飛んで来た。周囲にいる者達が悲鳴を上げ、その「鞭」に打たれた。トルソは足元の路面への直撃を飛び退いて避けると、鞭に打たれた、いや接触した者のほうを見た。数人が上半身と下半身を分断されて崩れ落ちている。周囲に更なる悲鳴が上がった。
 あの者はこの世界の人間に直接攻撃を加えることが出来るまでになっているのか? ならばこの場は危険過ぎる。これだけ大勢の者達がいる中、奴は決して人を避けて手を出してくるなどあり得ないであろう。
 その者の周囲にいた、信号待ちの者達はやはり悲鳴を上げながら、その者の周囲からほうほうのていで駆け出した。
「脆い。脆いものだ、人間」
 それはそう言うと、黒き靄を一気に周囲に爆散させた。その靄に包まれた者達は、その肉体を欠損させ、鮮血振り撒く肉の塊となり、その場に倒れ込んだ。男も女も、若者も高齢者も、大人も子供もない。周囲にいる人間をまるで草刈機で刈る雑草のように、その者は著しく乱暴に、そして無造作に、その命を奪い去った。
 傍にある交番から巡査が飛び出してきた。
「そこのお前! う、動くな!」
 震える声で、黒色の者に牽制するような物言いをしている姿がトルソの目に映った。トルソは叫んだ。
「逃げろ! そいつに構うな!」
 黒き者は巡査のほうを振り返ることなく、背から数本の「棘」を射出させると、巡査の全身を貫いた。巡査はその場で絶命した。
 トルソが前回対峙した「寂寥」とは全くわけが違っていた。この者は明らかに、「寂寥」の数倍も数十倍も、その力を強大化させている。
 たちまち周囲は阿鼻叫喚の地獄に急変した。車が走り込んで来る来ないに関わらず、大勢の者がめいめいに通りに飛び出して逃げ惑い始めた。中には急速に走り込む車にはねられ、その体を車両の上で横転させ、路面に無言のまま転げ落ちる者もいる。
「さあ、続きを始めようか。雑兵めが」
 その者は実に聞き苦しい声を発した。トルソとその者との間は何メートルも離れているのにも関わらず、その声はまるでトルソの耳元で発せられるかの如く聞こえてきた。まるで生暖かい吐息までもが伝わってくるようだった。
 その者は空中に浮遊すると、全身を何羽もの「烏」へと変化、分散させて、トルソに突っ込んできた。
 トルソは右へと駆け抜けた。「烏」は子供のブロンズ像に直撃し、それを木っ端微塵に砕いた。破片が高速で周囲に飛び散り、それに当たって傷をする者も何人か出た。破片の一つに額から後頭へと貫通され、その場で物言わぬ肉塊となる男もいる。
 逃げ惑う人々の中、トルソは必死に革袋から鞘を、鞘から剣を出そうとしながら走っていった。
「何処へ行く? ほらほら、関係ない者までやられるぞ? んん?」
 その者は「烏」のまま、トルソを追った。周囲の電光看板を粉々に粉砕し、木々を幹からへし折り、周りの者の胸や腹を貫いて大穴を穿ちつつ、鳴かぬ「烏」は何羽も飛んで接近しつつあった。
 数羽の「烏」が靄の塊となり、そばに停車していた車両を軽々と持ち上げると、トルソの前へと放り投げてきた。車両はひっくり返ったままビルの二階部分へと突っ込み、ガラスや外壁の破片を撒き散らしてきた。悲鳴が幾つにも重なり、車両が路上へと落下する激しい音と共に、トルソの耳を襲う。
「何処まで逃げるのだあああ! この虫けらがあああっ!」
 その者は吼えた。そして笑い声を上げた。
 トルソの駆け込む方向には、木々が立ち並ぶ、人工建築物が建ち並ぶ場所とは明らかに別格な土地があった。新宿御苑だ。そこだ。そこに入り込めば、少なくとも余計な犠牲をこれ以上出さずに済むかもしれない。トルソはそう思い、そこに入る門を捜しながら、飛び掛る「烏」を何とか取り出せた剣でなぎ払いながら、一目散に走った。
 トルソはその時、あることに気付いた。前に、ヴィクセンと共に見た黒き靄。センチュリオンの手下とは異なる、この世に生きる者達の念の靄。様々な感情が渦巻く東京、新宿に渦巻く思念。それらが黒き者へと集まっているのだ。
 そして、その者はその力を益々強めている。
「ほらほら、来ないならこっちから行くぞ!」
 黒き者は「烏」から再びその姿を変え、靄は煙のようにボリュームを増すと、路面に突っ込み、アスファルトや車両を一気に宙へと巻き上げ、雨か霰のようにトルソへと投げ込んだ。剣を持つ腕を頭の上にかざしながら、腰を低くしつつトルソは更に走った。激しい音が幾重にもなって轟き、その周囲には様々な破片が降り注ぎ、それに併せて路上の怪我人も増えていく。
 何処からかサイレンの音が聞こえてきた。赤い点滅灯を激しく光らせる、黒と白のツートンカラーの車両が数台、跨線橋のある辺りからこちらに向かってきていた。
「全く騒々しい……」
 その者はそう言うと、体の一部を彗星の如く変化させ、その車両のほうへと飛び込ませていった。数秒も経たないうちに、その地点で車両は爆発、炎と黒煙を巻き上げた。夜の市街地に、ネオン以上に存在感を示すオレンジ色の炎の光が通りの中央に立ち上り、人々の悲鳴が更に重なる。
 トルソは焦っていた。この者は自分に対して攻撃を仕掛けてくるだけではない。明らかに、この世界の者を傷付け、命を奪い、物を破壊し、しかもそれを「楽しんでいる」。
「貴様! 貴様の相手は私だろう! 関係ない者まで巻き込むな! こっちだ! とっとと掛かって来い!」
 トルソは絶叫に近い声を張り上げた。
 裏門らしき扉構えが見える。トルソはそこへ赴き、扉に手を掛けるが、施錠されていて扉は開かない。トルソは渾身の力を込めて、その扉を蹴破った。そして中へと入る。そこは広大な庭園のようだった。トルソはその中心へと走り出した。
「ならば逃げるなあああ! 相手して欲しければ逃げるんじゃなあああい!」
 その者は何とも邪な笑い声を上げつつ、トルソを追い掛けた。その靄が接触した木々はその場で真っ黒に変色し、枯死するというよりは、その場で悪臭放つヘドロのように溶け落ちた。

「こちら『おおとり六号』、現在新宿五丁目上空」
 警視庁の警察航空隊に緊急出動要請が掛かり、夜空に爆音を立てながらヘリコプターは飛行していた。
「五丁目東交差点から新宿御苑への方向にかけて、転倒した車両多数、路面は一部が掘り返されたようになり、周辺の建築物からは出火の様子も窺えます。怪我人、いや、死傷者の数は不明。また警察車両も炎上している模様。正体不明の黒色、煙上の物体は現場上空に停滞しつつ、まるで……まるで意思を持ったかのように動いている。建築物や路上のものを破壊しつつ……な? く、来る!」
 警察所属のヘリコプターに真っ正面から、まるで剣で邪魔物をなぎ払うかのように黒色の「鞭」は飛来し、機体を前方から後方へと、魚を包丁で下ろすかの如く、パイロットもろごと両断にした。ヘリコプターは上下二つの金属塊となり、あらぬ方向へと落下し、地上と高層建築物の外壁の二箇所にて爆散した。

「何だ? 何が起こっているんだ?」
 新宿署の中は、蜂の巣を突付いたかのような大騒ぎとなっていた。市街地で詳細不明の騒ぎが起こっている。死傷者多数、破壊された建物、車両も多数出ている。先程警戒飛行中のヘリコプターまでも落ちた。
 多々良はその騒ぎの元となっているらしきものが、「黒色の靄」と聞き、背筋を震わせた。治美が見たという靄、須藤一樹の息子が消息不明になった時にも目撃された黒い靄、ネットで騒がれている「黒いもやもや」。今度はそれが、こともあろうに新宿市街地を破壊しつつ、死者まで出ている? 
 署員はほぼ全員に出動要請が掛かった。多々良も例外ではない。恐らくは何かしらのテロ攻撃が発生した可能性がある、というのが現在の見解だ。
 テロ? そんな生易しいものじゃあない。多々良は額に汗を滲ませながら、他の仲間と共に現場へと向かおうとしていた。
 その時、多々良の携帯が鳴った。戸田治美だ。
「治美か? 悪い! 今話せる状態じゃない!」
「次朗? 何が起きてるの? 外は凄い騒ぎよ!」 
「お前……おい! 今何処にいる?」
「今、新宿駅の新南口の傍のマックよ。あんたに電話しようと思ってたら… 」
 治美の周りの者達が声を上げて騒いでいる声が聞こえてくる。
「治美! 今すぐそこから出ろ! 駅へ向かうんだ!」
「え? 何?」
「だが電車には乗るな! 構内の奥に逃げるんだ! 急げ!」
「ちょ……次朗!」
 多々良はそう言うと通話を切った。まさか治美が現場の傍にいるなんて……多々良は絶望的な気分になった。その場所と新宿御苑は目と鼻の先の距離だ。あの狭い店内で何かあれば、まともに逃げ出せるものではない。店舗の前は跨線橋と建物に挟まれた細い路地だ。逃げ込む者でごった返せば、二次被害さえ出かねないのだ。
 署内の全館放送にて、各課総員での出動命令が数回繰り返されている。
「何だってんだ、畜生!」
 多々良は悪態を付きつつ、仲間と共にパトカーへと乗り込んだ。

 突然に多々良への通話が途切れた。治美は不安に包まれながら、携帯を閉じた。この店舗の二階の窓からはろくに外の情景が見えない。橋で邪魔されているのだ。下を見ると、何人もの人々が新宿駅の方向へと走っている。
「おい、やばいって……逃げるぞ!」
「何よ、これ、何が起こってんの?」
「爆発音だ……テロかこれ? テロだきっと!」
 客がめいめいに好き勝手にものを言っている。しかし皆、窓のほうに集まっていて、店から出ようとする者は半数にも満たなかった。治美は急いで階段のほうへ急ぎ、一階へと下りていった。階段を下り切ると、店舗の前の道が目に入る。何人もが走っている姿が見えた。
「ちょっと……何が起きてるの?」
 そう不安げに呟きつつ、取り敢えずは多々良に言われた通りに、新宿駅へ行くことにした。つまりは外が危険だと言うのだ。
 治美が外に出て、走り行く人の流れに乗って移動し始めたその直後、治美は何の気なしに後ろを振り向き、仰天した。黒き煙が鞭のようにしなり、跨線橋の端にあるビルの外壁に当たり、膨大な量のガラスやコンクリートの破片を路上へと落としていった。その下にいた者達は破片の雨を全身に浴び、その場に崩れ落ちていく。次いで、先程までいたマクドナルドの店舗部分に黒い煙の一筋が飛来、ガラス窓をぶち抜いて中へと突入し、そこからは悲鳴が上がった。路上でも誰かしらの悲鳴が上がり、周辺はまさにパニック状況となっている。そして、我先にと駅へ走り出す者の群れで酷い混乱を呈することとなった。黒き煙の帯は跨線橋の上をなでるように走り、数台の車両を弾き飛ばした。車両は路地沿いの店舗や雑居ビル目掛けて突っ込む形となり、その車両の下敷きになる者も現れた。警察車両のサイレンがけたたましく鳴り、避難誘導する警官の声が響いている。
 その時、治美は聞いた。まるで地の底から湧き上がるような、低く不気味で、無感情で、しかし何処かしらこの惨状を「楽しむ」かのような声を。

「滅びよ」
「享受せよ」
「我の存在を認めよ」

 治美は恐怖で足下がすくんでいた。その中に赤ん坊の泣き声を聞いた。橋の反対側に目を向けると、上下逆様になってひしゃげているワンボックスカーがあり、傍をガラスの破片が散らばっている。そのすぐ傍で若い男性が額から夥しい量の血を流し、目を開いたままで倒れている。その胸にはベビーキャリーがあり、中に赤ん坊がいた。赤ん坊は大声で泣いている。治美はその男の下へと駆け寄った。
「あの……大丈夫ですか?」
 だが男は答えなかった。額にぱっくりと大きな裂け目を作り、脳漿まで見えている。手首を持ったが脈はない。傍には母親らしき若い女性が倒れている。彼女の脈もない。仰向けになり、彼女も両眼を見開いたままでこと切れていた。治美は泣き出しそうになるのを必死に堪え、その赤ん坊をベビーキャリーから抱き上げると、その胸に抱いた。
「大丈夫よ! もう大丈夫だから……ね……だいじょう……」
 言葉が出ない。絶えられずに涙が流れてきた。治美はキャリーに付いていたネームタグを外し、共に警官に預けようと思いながら、その赤ん坊と共に新宿駅へと駆け出した。

「七海! お前、今何処にいる?」
 丸山重雄が携帯で娘の七海と連絡を取っている。午後から恋人と一緒に出掛けているのだ。恋人なる男性がどんな男で、どんな性格なのかなど今は全く関係ない。付き合いを認めているわけではないが、かと言って文句を付けているわけでもない、ただ黙認しているだけなどという事情さえどうでもいい。申し訳ないが、その恋人の無事も気にはなれない。一緒について行った娘が今どうしているのか、心配でならなかった。営業時間も終わり、二階の一室で残った事務処理をしていたが、その休憩にと席を離れ、たまたま電源を入れたテレビでニュース速報を見、新宿での惨状を知って驚愕していたのだ。
「パパ? 今は池袋よ。こっちは大丈夫」
 七海は元気そうな声で答えた。
「今、駅よ。放送があって、今新宿が大変なことになってるから、電車が止まってるって……」
「だがこっちは上野だぞ! 外回りの線で帰って来られないのか?」
「山手線も中央線も止まってるって言ってる。丸ノ内線と大江戸線を乗り換えて、広小路まで出られたら帰れなくはないけど……」
「じゃあ、広小路からタクシーでも何でも使って、今すぐ帰って来い! 俺もすぐに会社を出るから!」
「パパ、これ、何なの? 詳しいこと全く分からないの……」
「俺もよく分からん。だが、早く帰って来なさい! 携帯、繋がりにくくなるかもしれないが、とにかく広小路まで来れたら電話しなさい。いいね?」
「うん……分かった」
 丸山は七海との会話を終えると、煙草に火を点け、再びテレビの速報に目を移した。テレビ局のヘリコプターからの生中継が放送されている。市街地の所々に火の手が上がり、警察車両や緊急車両のランプがあちらこちらで目まぐるしく回っている。
「丸さん……!」
 振り向くと、社員のクミが立っている。黒いブラウスに黒いロングヘアの容貌ではあるが、決して重々しさや暑苦しさを感じさせない、凛とした表情の彼女である。しかし、今はその表情を歪ませている。
「お、どうした?」
「森が、森が新宿からまだ戻っていないんです」
「何だって?」
 丸山は思わず大声を出した。
「下見で今度ウチが扱う新しいリノベーション物件を見に行って、そのままお客様と話をするって言ってて……まだ連絡も付かないんです」
 クミの顔色は些か蒼ざめている。
「慌てるな。こんな状況だ、携帯だって繋がりにくくなっているさ。分かった。俺がここにいて、森に連絡をつけるよう踏ん張ってみる。クミちゃんは家、御徒町だったよな? ここはもういいから帰りなさい」
「でも……」
「いいから! 親御さん、心配しているぞ」
 クミは深々と頭を下げると、休憩室を離れていった。
 丸山は眉間に皺を寄せつつ、大きな吐息を一つ吐いた。

 森は営業車の中でハンドルを握ったまま気を焦らせていた。丸山よりも背が高く、それでいて丸山並みの体重の持ち主という、レンタミューズ第一の巨漢の持ち主たる男は、前後にびっしりと止まったまま、先にも後にも進めない車の中でFM放送を聞いていた。今、この瞬間、この新宿市街地で起こっている異常事態についての速報が流れている。屋外にいる者はすぐに建物の中か、地下鉄駅のほうへ避難せよと言うものだった。
「嘘だろ? 勘弁してよ……!」
 森の表情は恐怖と焦りで歪んでいた。脂汗が流れ落ちる。前にも後ろにも煙が上がり、ちらほらと火の手まで見える。その上には、夜の闇以上に真っ黒な煙の帯がうねうねと駆け抜け、その行き先ではオレンジ色の炎の光と共に悲鳴も上がっている。
「何だよこれ? テロ?」
 恐怖と不安を紛らわせようとしているかの如く、森は身動きの出来ない車内でひたすら独言していた。車は今高島屋の前の信号付近で立ち往生している。森は車窓を開け、外の様子を窺おうとした。すると、歩道にいる者達から新たな悲鳴が上がった。何人かが自分の後ろの方角を指差している。
「何? 何だよぉ……?」
 森はルームミラーを動かして、外の様子を見た。後方にあるNTTドコモ代々木タワーの尖塔がぼっきりと折れ、地上目掛けて落下していく光景がその目に飛び込んできた。
「うわあああああっ!」
 森は叫ぶと、エンジンを切り、キーは付けたままで車から下り、高島屋のほうへと駆けて行った。JR新宿駅構内に入れば、奥行きもかなりあるため、こんな所で立ち往生しているよりは安全だろうと思ったのだ。
 車から出て駆け出した数秒後、先程まで乗っていた車のある方向から鈍く激しい音が聞こえた。森が振り向くと、黒煙の長い「尾」が路上に止まったまま身動き出来ないでいる何台もの車両を巻き上げ、通りの向かい側にある雑居ビル群に向けて弾き飛ばす光景が飛び込んできた。建材の破片と共に車両の雨が歩道に降り注ぎ、下にいた通行人の姿を掻き消した。
 森は震え上がりながら、再び駆け出した。

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