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リフレクト・ワールド(The Reflected World)

第三十三章 黒夢

 ←第三十二章 クロスゲーム  →第三十四章 それぞれの思惑 【前編】
 東京スカイツリー付近で撮られた動画や静止画像は、様々なブログやSNSを通じて巷に拡がった。動画サイトにて出回った画像はそのまま、テレビのニュースやワイドショーにて流されもし、また日本から世界各国へと流出していった。こうしたものに対しての反応は様々であったが、少なくとも被写体の一つである、首元にタオルを巻きながら、巨大な鳥と甲冑姿が出現するまでひたすら独言をしている男を知る者にとっては、まさに驚天動地の出来事であった。
 須藤が黄金の甲冑を身に纏う外国人風の男の手を取り、頭と尾羽に妙に長いものを下げてうねうね動かす鳥らしき巨大生物の背に乗って、スカイツリーを背にして夜空高く舞い上がる姿は、最初は何が映っているのか、これはCGなのかと全く理解出来ないのだが、そこに映る男が須藤一樹だと思い直した途端、驚き、半ば呆れ、そして頭の中が一瞬真っ白になったのだった。画像の真偽よりも先ず、
「ウチの社長は何をやらかしたのだ?」
という不可思議な気分に、丸山を始めとする社員達は囚われていた。
 須藤が社長を勤める「株式会社レンタミューズ」は、通常よりも些か多忙さを迎えていた。何処から情報を手に入れたのか、会社にその動画の件について電話が掛かり始めていたのだ。
「突然のお電話で大変失礼致します。『株式会社レンタミューズ』様でいらっしゃいますか? こちらは……」
と、大手のテレビ局から取材の申し込みが入ったり、
「おお、見たよ、あのワイドショー! あはははは、凄いねぇ! ところで須藤君、今いるの?」
と、取引先の業者からもこの手の電話が入ってきた。はたまた、
「あれ見ましたよ! いやぁ、何だか凄いですね! ここで次の部屋を探したくなっちゃいました!」
と、若い新規顧客からの問い合わせや来店があったりと、妙な宣伝効果までもたらしていた。丸山もどう対応したら良いものか、喜んで良いのか悪いのか、掴みかねていた。
 啓吾の居場所が分かったと言っていた須藤の、その後の姿がまさかこんな形で世間に出回るなど、丸山は全く想像していなかった、いや想像出来るわけがなかったのだが、同様に驚きを隠せないでいる社員達に語って聞かせることに専念していた。
「俺達が今やることはいつもと同じだ。今やるべきことを今やる。それにつきるんだからな。何か言われたら、相手がお客様なら笑顔でお迎えしろ、そうでなきゃ適当にはぐらかしておきゃいいんだ。皆しっかりな!」
 だが、その丸山は娘の七海からしこたま叱られていた。動画サイトで須藤の姿を見たことをきっかけに、啓吾の失踪とそれに続く須藤の「失踪」と言う事情を知った七海は、丸山に詰め寄ったのだ。
「何でおじさまを行かせたのよ、パパ!」
 須藤がトルソ達と共に「来世」へと旅立ったことは、二人の知らぬことであったが、七海にとっては「けいちゃん」と「おじさま」と呼ぶ、慣れ親しんだ二人が消えたことに気が気でなくなっていたのだ。
「あの動画のことはよく分かんないけど、でもけいちゃんを捜すのって警察の仕事でしょう? おじさまにまで何かあったらどうするのよ!」
 確かにそうなのだ。そう感じている丸山は七海に何も言えずにいた。こうと思ったことは必ず敢行する、それが須藤の気性だ。それを思えば、気にはなるものの、横から口を出しても無駄であろうことを分かっていた。ましてや自分の子供の消息に関わっているとなれば尚更だ。説得して止めるべきだったのか。警察に任せておけばいいと言うべきだったのか。その身に何かあれば、残された啓吾はどうなると言うべきだったのか。はたまた無理矢理にでも取り押さえるべきだったのか。だが、それらのどれをやっても、丸山には須藤を押さえられなかったであろう。それを丸山自身も感じていた。
「俺は社長を信じている」
 この一言が丸山にとって今言うことの出来る精一杯の言葉だった。
 七海は
「はぁ? 何それ?」
と呆れて言い返した。
「もしお前が同じようなことになったら、きっと俺も同じことをする。親ってそんなもんだ」
 丸山は静かな口調で言った。七海は半ば呆れた表情で、丸山の顔を見詰めていた。

 その夜。七海は夢を見た。神楽坂にある須藤のマンション。そこにある一室。先日、一緒にいた啓吾の泣いていた部屋だ。だがそこにいるのは七海一人だった。周りを見回してみる。何回か来ている部屋だ。見覚えのないものはない。七海は部屋から出る。ダイニングキッチンのカウンターがあり、そしてソファーの置かれたリビングがある。啓吾の姿はおろか、須藤も見えない。キッチンの明かりは消えていて、隣のリビングは明かりは灯っているのだが、妙に寒々しい感じを覚える。ふと窓を見てみると、窓は閉まっており、その向こう側に啓吾が立っていた。
「けいちゃん?」
 七海は窓のほうに近付いて行った。すると七海の後ろから、
「七海ちゃん」
と呼ぶ声がする。振り返ると、そこに須藤がにこにこと笑顔を浮かべて立っていた。
「おじさま?」
 須藤は笑いながら手を差し出した。
「自分達を受け入れて欲しいんだ」
 須藤は言った。
「え?」
 七海は須藤が何を言い出したのか分からなかった。自分は須藤を受け入れている。父の上司であり、家族のような付き合いもあり、そして良き相談相手でもあり、慣れ親しんでくれる啓吾の父親でもある須藤。何故、今更そんなことを? 受け入れて欲しい?
「自分達を受け入れて欲しい」
 須藤は繰り返した。
「え、あの……おじさま? 私、受け入れてますよ。おじさまもけいちゃんも」
「啓吾は弱い存在だ。まだ子供だっていう理由だけじゃない。自分もそうだ。人間なんて弱くて、不安定で、ややもすれば何処へ転がっていくのかさえ分からない」
「はあ……」
「そんな不安定さなんて、ないほうがいいと思わない?」
 七海には須藤が何を話しているのか分からなかった。
「そのほうがずっと心地いいんだって思う」
「おじさま、ごめんなさい、何を言っておられるのか……」
 窓の外にいる啓吾の声が聞こえてきた。
「受け入れて欲しいの」
 須藤は更に言葉を続けた。
「自分は、人って皆心地よさを求めているんだと思っている。でも、自分に正直になれなかったり、自分のことを分かってくれって人に言ってばかりだったり、人が自分の期待と外れたからと言って怒ったり、悲しんだり、寂しくなったり、自尊心が強すぎて、そしてそれを守ろうとして、周りとぎくしゃくして……そして、そんな不安定な気持ちが、心が、いつの間にか自分だけじゃなく、周りの人まで傷付けることになっている…。そんなの、終わりにすることが出来れば、すごくいいと思うんだ」
 七海に語り掛ける須藤の表情から笑みが消えた。
「そう思わないかい?」
 七海は答えを詰まらせた。
「ええと……そう……ですね。あはは……」
 笑って誤魔化したが、何故そんな話をしてくるのか、七海には須藤の意思が読めない。
「じゃあ、終わらせちゃえばいいんだよ。そうすれば、自分も傷付かなくて済むし、人を傷付けることもなくなる。自分の不安定な心持ちや気持ち、感情が安定すれば、それはいい結果を生むと思うんだ」
 もう七海は笑って誤魔化すという気持ちにさえなれなかった。どうしたのだろうか。須藤は酔っているのか?
「不安定なものは消えてしまえばいい。安定さを保っていることこそが、本来の自然な有様。本来の万物の有り方なんだ」
 安定さを保つことが自然な有様?
 七海の背筋に何やら冷たいものが走った。
「人の心、気持ち、感情、そんな移ろいやすいものは、そこにあるだけで不自然なんだよ。動物の本能と違って、本能の壊れた人間は、その動物の本能の代理品を務める心を持った。でも、そんなものは本来あるべきものじゃない。不自然で不安定だから病んだりもする。心の病んだ動物なんて人間ぐらいのものさ。そんな不自然なものを持たないと生きていけない人間は故に、不自然な存在なのさ」
 七海は思った。彼はいつもの「おじさま」じゃない。
「涅槃の境地って聞いたことあるよね?」
「え、ええ……大学の教授に聞いたことがあります」
 ふと、大学の心理学教授、箔座松太郎の話を思い返した。

「仏教では『無』を崇拝した宗教だとして、彼らは震え上がったんですよ。なんせ、『存在あるもの』を崇拝する彼らの宗教とは全く次元が違う。涅槃の境地って聞いたことがあるでしょう? 仏教では、そこに達することが魂の救済とされていたんです」

 確か、フロイトの提唱したエロスとタナトスの概念、そのうちタナトスの話をしていたときに聞いたものだった。「自己破壊願望」ともいえる「死の欲動」「タナトス」……
「涅槃の境地を、人が達するべき最終境地と解釈しているかもしれないが、そんな境地に人が達することなんてあり得ない。不安定だからこそ、安定している『無』を求めていたが、なかなか不自然な本能の代理品たる心がそうすることを許さない。だから、他の力を借りて行うしか手はないんだよ。『虚無』こそが達するべき状態なんだ。境地なんて生易しいレベルとは違う」
 そう話す須藤の周囲が「薄暗く」なった。そしてその暗さはやがて、黒い靄となり、須藤の体を包み込み始めた。
「なに……よ……これ?」
 須藤の姿をした「それ」は再びにやりと笑みを浮かべた。何気に窓を見ると、啓吾の体も黒い靄にすっぽりと包まれている。
 目の前の「それ」は言った。
「我等を受け入れよ」
 窓の外のベランダにいるもうひとつの「それ」も「受け入れよ」と反復する。
「だ、誰なの……?」
 七海は震える声で訊いた。
「我等はお前達にとって唯一の救済の道標であり、そして唯一無二の正義である」
 黒い靄が七海の目の前に一挙に押し寄せてきた。

 七海は目を覚ました。全身にじっとりとした嫌な汗がにじんでいる。目覚めてしばらくは声が出せなかった。

   ※ ※ ※ ※ ※

「何だいこりゃ?」
 多々良次朗は眉をひそめてPCの画面をじっと見ていた。そのうちに背筋に一本の冷たい金属の棒が差し込まれるかのような感覚を覚え、多々良は思わず身じろぎをした。PCの画面には、動画サイトで流布している、須藤と空間近衛騎士団、そしてグリフィスとの動画が表示されている。しかし、我が目を疑いたくなる気持ちをどうしても拭い切れなかった。信濃橋で戸田治美が遭遇した黒い「異物」と、それをなぎ払う「剣」、そして甲冑姿で巨大な鳥に跨る「戦士」達。その存在を闇雲にでなく、確実な理由、根拠と共に否定したい気分を、その動画は見事に粉砕してくれた。だが、それでも「信じたくない」気持ちが残る。
「お前、仕事中に何見てるんだ?」
 多々良の同僚が、後ろからPCの画面を覗き込みながら、その顎を多々良の肩に乗せるようにして言った。
「これ、ニュースやワイドショーで出てたあれだろ? CGか何かだろ、これ?」
 同僚は鼻で笑うかのような口調で言い残し、多々良の傍を離れた。
 そりゃそうだ、こんなもの誰が本物だなんて思う? 多々良は思った。だが、治美がこれを見たらどう感じるだろうか? ここまで有名にもなってくれば、恐らく、いや十中八九目にしていると思われる。
 無性に治美のことが気になり出した多々良は、携帯で治美に電話を入れてみた。
「次朗?」
 治美だ。声の調子はいつもと変わらない。
「ああ、あのな……」
「何?」
「いや、お前、大丈夫かなって思って……」
「何が? ああ、ひょっとしてあの動画?」
「やっぱりお前も見たのか」
「スカイツリーでのあれでしょ? びっくりしたわ。でも、それを見たからといって、どうこうってことはないわよ」
 全く普段通りの話し方と変わらぬ、その治美の口調に多々良は安心感を覚えた。
「治美、今は仕事中か?」
「ううん、今日はオフよ。今、大学に向かっているの」
「大学?」
「そうよ。昔お世話になった先生に何だか会いたくなっちゃって」
「そうか……」
「何? 心配して電話してくれたんだ。可愛いとこあるじゃん」
 電話の向こうの治美がくすっと笑った。その笑いが多々良の耳に届く。
「ばぁか」
 多々良の憎まれ口に治美はもう一度笑った。
「まあ、何でもないようだし、切るな」
「うん。次朗、サンキュね」
「治美……その……気を付けろよ」
 治美は「うん」と短く返事をして、電話を切った。
 多々良は携帯をたたんで机の上に置くと、大きな息を一つ吐いた。

 何故あんな夢を見たのだろうか。治美は通りにあるカフェに立ち寄り、甘めのコーヒーにホイップクリームをのせたものを注文し、窓際のカウンターで飲みながら、後味の悪い気分を払拭させようと試みているところだった。
 夢の中で父親が立っていた。町工場を経営していた父。いつも酒びたりで母や自分に悪態を付き、物を投げ付け、時には手をも出した父。しかし仕事に関しては真摯に取り組み、生産する大手工場向けに出荷予定の部品の一つ一つに愛着を持っていた父。ネジ一本やナット一つに対しても気持ちを傾け、
「どれ一つとして不要な部品なんてないんだ、たとえどんな小さな部品でも、どんな小さなネジ釘一本でも」
と語っていた父。本当のところは気が小さく、口下手で、自身の気持ちや感情を表に出すことが下手で、また怒りや悲しみに囚われて前が見えなくなることもしばしばあった、その都度家族にそのはけ口を求めていた父。だが治美が幼かったころは大層いとおしげにしていたと言う父。両親や曾祖父母に厳しく躾けられ、折檻され、そんな中で治美の祖父にあたる父親の死をその目にした父。心に傷を負い、それが癒されることもないまま、そして何に対しても不器用なまま、誠実な気持ちこそあれど、それを上手に表に出すこともままならなかった父。
 夢の中で治美は、自分の実家のあった長岡の町工場の中にいる。薄暗い工場の中は様々な機械が置かれ、埃臭さと機械油の匂いが漂う。確かに懐かしい匂いではあるが、あまりいい思い出のない匂いでもある。明かりは消えていて、縦長の擦りガラスの窓からは薄白い陽の光が入ってきて、工場の中をぼんやりと照らしている。
 父はその奥に立っていた。治美に背を向け、小柄な体が更に小さく目に映る。背を向けているものの、短く刈り込んだ白髪頭、見慣れた作業着に覚えのある染み汚れ、見覚えのある黒い薄汚れた安全靴、顔こそ見えないが父である、治美はそう確信していた。
「父さん?」
 治美は恐る恐る声を掛けた。
「お前、俺を恨んでるんだろう」
 父はぽつりと言った。間違いない。あの父の声である。
「父さん……なのね」
「治美。お前、俺を恨んでるんだろう?」
 声を掛けた治美に、父は同じ質問を繰り返した。
 治美は返答に詰まった。恨んでいないと言えば、一昔前なら嘘にはなったが、今はそうでもなかった。恨んでいないというよりも、そういう風に考えないようになっていたのだ。子供時代の辛く苦しい、そして寂しい記憶は、今の治美を立たせる原動力に転じ、そして児童福祉司としての道を歩むことに至っている。
「父さん。いいの。もういいのよ」
 治美はそっと答えた。
「もういい?」
 父は治美の言葉をオウム返しにした。
「もういいとは何だ? お前にとっては良くっても、俺にとっては何にも良くないんだぞ……分かるか?」
 父の物言いに悲しげな雰囲気が纏わり付いている。
「え?」
 治美は訊き返した。
「俺はお前のことがかわいくてかわいくてたまらなかった。それが……確かに俺の態度は評価されるもんじゃないかもしれん。だがな、それでも俺の気持ちは変わらなかった。お前がかわいかったんだ。お前に見放されたくなかった。突き放されたくなかった」
「父さん……」
「分かるんだよ。今となってよく分かるんだ。お前、俺のことを『父さん』って呼んでるが、躊躇いがあるな? 本当は『父さん』だなんて言いたくもないんだろう?」
「そんな…」
 父は振り返った。治美の記憶に残る、あの父の顔がそこにある。
「俺は自分のことで手一杯だったからな。お前や母さんを食わせていかなきゃならない、そのことで頭が一杯で、毎日毎日この工場で働いた。自分のことだけで他に考える余裕がなかったんだ。それでも、親の務めは果たさなきゃならん。家族を持ったんだ、稼がにゃならんだろう?」
「……稼いで食べさせる、それだけが親の務めなの?」
 治美はぽつりと言った。
「私、父さんと何かをしたって記憶があまりないのよ。そりゃ、何処かへ連れてってくれたって記憶がないわけじゃない。でもね、一緒に話をした、話を聞かせてくれた、一緒に笑った、一緒に気持ちを語り合ったとか……心がほっとするような思い出を一緒に紡いだ記憶がそんなにないの。私の記憶に濃いものは、父さんが私に跨って平手打ちをしたこと、私の大好きなお人形を癇癪を起こして、私の目の前で引き千切ったこと、私と母さんが父さんの目を気にしてびくびくして毎日を送っていたこと、そして……母さんが私によく言い聞かせてくれてたわ、『世の中にはおかしいと思うことでも、どうにもならないことがあるの』って。父さんが私たちに何かやったり、酷いことを言ったりした時、私が泣いている時にそうやって言われたこと……」
「母さんがそんなことを言ってたのか……」
 父は背を向けたまま俯いた。
「だがお前達はそうやって自分のことばかり言うがな、俺の気持ちって考えたことあるか? 稼いで食べさせることだけが親の務めかと訊くが、それがどれだけ大変か分かるか? この工場は所詮は下請けにしか過ぎん。借金を抱えて始めて、何とか軌道に乗せて、そして汗水流して苦労して苦労して、下げたくもない頭を銀行の連中に下げまくって……お前の言う人形だって、どれだけ苦労しなきゃ買えないか、考えたことあるか? そうやって毎日を追われて、自分の時間さえまともに持てない俺に、気持ちの余裕さえ持てない俺に、お前達は一体何をこれ以上求めるって言うんだ?」 
「父さん……」
 父は声を荒げた。
「俺のことなんて全く考えようともしないで、自分達の気持ちを考えたことがあるのかって、俺に詰め寄るのか? 酷いことをされた記憶しかないと言うのか? お前達のほうがよほど酷いんじゃないのか? ええ?」
 治美は自分の中に沸々と黒い感情が湧き上がってくるのを感じていた。これまで父に面と向かって何かを言ったことはなかった。だが、今ならその呪縛の鎖が断ち切られたかのように思えた。
「それであんな振る舞いをしたって言うの? それで分かってくれって言ったって無理よ。私、毎日父さんが怖くてたまらなったわ。それは厳しい父親に対してでなく、何を言われるか、されるか、それが分からない、理不尽なことで嫌な思いをさせられるか、それが不安で、毎日父さんの目を気にして震えながら生きていたわ。まだ幼かった私に父さんが求めるものを押し付けられてもどうにもならないでしょう? 母さんも私を庇いながら震えていた。怯えていたわ。私、そのせいで人の目を気にするようになったわ。人が怖くて、信じられなくて、壁を周りに張り巡らせて生きていた。おかげで随分と苛められたわ。それでますます他人が嫌で、友達も持てなくて!」
「それが俺のせいだと言うのか、お前は?」
「父さんの子供時代のこと、母さんから聞いたわ。父さん、自分の子供の頃は幸せだった? 怖くて震え上がっていたんじゃないの? 自分がされて嫌なことをどうして私や母さんに……?」
 父は治美のほうを向き、声を荒げた。
「聞いたような口をきくんじゃない! お前に何が分かる? 俺がどんな思いでやってきたか知りもしないで!」
「父さん、辛くて苦しい思いをしたくなくて家を出たのよね? そんなに人にされて嫌なことを、同じことをやるなんて酷いじゃない!」
「そうか、だからお前も家に寄り付かなくなったのか? 大学まで出してやったのに恩も忘れて!」
「大学に通わせて貰えたことは感謝しているわ」
「嘘付け! 本当に俺が嫌なら、バイトでも何でもして仕送りを断ったっていいじゃないか? 俺の力を借りなくてもいいじゃないか、え? 学費だって丸々働いて返してくれたっていいだろうに?」
 父のこの言い分は当然だった。治美は言葉を詰まらせて俯いた。
「怖かったのよ……バイトすることさえ怖かった。人の中に入って行くのが不安で怖くてどうしようもなかった。だから……大学に入ってやっと友達が私にも出来た。その友達に薦められて、説得までされて始めてやったバイトも……結局長続きしなかった」
「それも俺のせいか? 人のせいにして何を勝手なことを!」
「私をそんな風にしたのは父さんじゃないの!」
 治美は分かっていた。嘘は付いていない。そして、それが単に自分の甘えであることも分かっている。だが、それでも言わずにはおられなかった。
「父さん、言ってたわよね。『お前には金を稼いで家に入れさせる、さもなきゃいい男と結婚させて稼がせて、金を家に入れさせる。そのためにお前を生ませた』って。私に面と向かって言ったわよね? 私、今でも覚えてるわ。どれだけショックだったか。たとえそれが頭に血を上らせてのことだったにせよ、そしてそんな時にはそういう酷いことを言いがちであったって分かっていたにしても、その言葉を私は許せなかった。だから……そうよ」
 心の中に黒い感情が沸々と湧き上がってくるのを治美は感じていた。
「ずっと酷い目に遭わされてきたんだもの、大学を出して貰うことくらいしてくれたって罰は当たらない、そう思ったわ」
「本音が出やがった!」
 父はそう言うと、工場の床に唾を吐き捨てた。あれだけ大事に思っていた工場に唾を吐き捨てる父を、治美は奇妙に思えた。どんなに自分達に酷い仕打ちをしてきたとしても、父は仕事に対しては真摯に取り組んできた。工場にも愛情を注いでいた。故に、工場の床に唾を吐くということが、そんな父の行動とは思えなかった。それともまた、それだけ頭にきていて我を見失っているのか。
「でもね」
 治美は深く息を吸って続けた。
「そんな自分が正しいなんてこれっぽっちも思ってはいない。とんでもなく甘ったれていたことだって分かっている。だから、私は私みたいな子供が一人でも少なくなるように、私みたいな歪んだ人間にならないように、そんな子供を生み出す環境から子供を助け出せるように、私は頑張って今の職に就いているの」
「児童福祉司ってやつか? お前が恥ずかしげもなくよく言う」
 父に自分の仕事のことなど話した記憶はないのだが、何故知っているのだろう? 母親が話したのか?
「お前は俺を許していない。受け入れていない。そんなお前に何が出来る?」
「確かに私は父さんを完全に許せてはいないと思う。でも、そんなこともういいって思ってもいるの。父さんへの恨みとか腹立ちとか、怯えとか……でもそれがあったからこそ、転じて今の私の原動力になっているとも感じている。そんなものが何もない人よりは、人の辛さや寂しさ、怒りや悲しさが分かるかもしれないって思う」
「俺の辛さや寂しさをお前は分かるか?」
「……ええ。今ならね」
「じゃあ、俺がお前にどれだけ失望したかも分かるか?」
「父さん……」
「まだ俺のことを父さんと呼ぶのか? 虫酸が走るくせに」
「どうしてそうなの? 昔からそうやってひねた物言いばっかり!」
 父は溜め息をついた。
「お前と俺とはどうにもならないようだな」
「歩み寄りがないのは父さんのほうじゃない……」
「お前が俺に合わせるほうが筋なんだ! 俺はお前の父親だぞ! お前を食わせて大きくしてやって……俺が何故お前なんぞに合わせなきゃならないんだ! ふざけるな!」
 治美も息を一つ、ふうと吐いた。
「親のすることは金を稼いで子供や奥さんを養うこと。それしか知らなかったもんね」
「それ以外に大事なことなどあるか! 幸せは金じゃないなんて言い分もあるが、そんなものは嘘っぱちだ! 金が幸せなんだ! 気持ちだ? 心だ? そんなもの知ったことか! お前は俺に感謝して、俺の言う通りにだけしていれば良かったんだ! そういう風に振舞ってくれるお前が傍にいてくれることが俺の……」
「そんな風に振舞う私が傍にいることが父さんの幸せだったの? お金じゃないのね」
 父は黙った。
「父さんは私を一人の人として見てくれたことあった? その言い方じゃあ、私はまるで父さんのペットみたいじゃない。でなきゃ操り人形よ。自分の思い通りに動いてくれて、賛成してくれて、家への収入を得て、そして愛してくれる娘。それが父さんが私に求めていた姿なの?」
 治美はゆっくりと言った。
「それは無理な相談よ」
 父は怒りに満ちた目で治美を睨み付けていたが、やがて顔を背けた。
「全く……面倒臭いもんだ」
 治美は眉をぴくりと動かした。面倒臭い?
「心だの、気持ちだの、感情だの、愛情だの……そんなものに囚われているから、余計な期待を抱いたり、失望したり、腹を立てたり、面白くなかったり。そんなものが無けりゃ、どれだけ楽でいられたか」
「父さん?」
 治美は息を呑んだ。父が何を言おうとしているのか、見当が付かなかった。
「お前なんかを娘として育てることも、娘を持つことも、俺があんな親の元に、あんな家の元に生まれることも、何にもなかったんだろうな。だから、こんな思いもせずに済んだ」
「父さんは生まれてきたことを、そして私の親であることを悔やんでいるの?」
「治美、お前だったらどうだ? お前みたいな娘を持ったら、親でいることさえ嫌になる」
 自分と父親との間にある亀裂はこれで決定的なものになった。治美はそう感じた。
「だから、こんな面倒臭いものはあっちゃいけないんだよ。ぐらぐらしていて、人の心を掻き乱して、一時幸せだって思えたら、不幸のどん底にだって叩き落されかねない。何で心とか感情とか、そんなものを持っちまったんだろうなあ、人ってやつは」
「父さん?」
「だがお前は受け入れなきゃならん」
「え?」
「これから起ころうとすることは、そんなぐらぐらした人の世を救うことになる筈だ。俺のような、そしてお前のような人間がこれ以上苦しまずに済むように」
 父はにやりと笑った。それを見て治美は背筋にとんでもないほどの強い悪寒を感じた。
「全て無くなっちまえばいいんだよ。それが救いってもんだ。皆それで救われるんだ。生きていても死んでから後も、苦しむなんて俺はもう真っ平なんだ」
「父さん、何を言ってるのよ?」
「全ては……彼等が成し遂げてくれる。俺はそれを待つ」
「彼等って、何? 何の話を……」
 治美はぎょっとした。目の前にいる父の全身から黒い靄が立ち昇り始め、それがぐるぐると渦を巻いて、父の全身をすっぽりと包み込んだ。
「全てはもう始まっているのだ、治美」
 黒い靄が怒涛のように治美の目の前に押し寄せてきた。

 治美はそこで目覚めた。汗でベッドのシーツがぐっしょりと濡れ、全身の震えが止まらなかった。

「箔座先生」
 治美は教授室の扉をノックした。
「はい」
 聞き慣れた声がする。懐かしい声だ。
 治美は扉を開けた。
「お久しぶりです」
「君は……ああ、戸田治美君か? いやあ、懐かしいなあ。急にどうしたの?」
「突然にお邪魔して申し訳ありま……」
 ふと、箔座の前に座る娘に気が付いた。彼女は小さく笑うと、ぺこっと頭を下げた。
「ああ、彼女は私の学生でね。紹介するよ。丸山君、彼女は戸田治美さんって言ってね、今はええと……」
「児童福祉司をやってます。私も以前、箔座先生にお世話になったの」
 治美はにっこり笑って、七海に語り掛けた。
「初めまして。私、丸山七海っていいます。先生には日頃いびられてるんですよ」
 そう言うと七海は笑った。
「酷いな、丸山君。まるで私がサディストっぽく聞こえるじゃないか」
「あら、先生、今でも同じように学生いびりをしているんです?」
 治美は冗談めかして言った。
「馬鹿言うんじゃない」
 箔座は顔をしかめて答えた。
「今ね、この丸山君の話を聞いていたところでね。夢の話だ」
「夢、ですか?」 
 治美は問い返した。
「そう。黒い靄が襲ってくる夢」
 治美の表情が変わった。

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