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リフレクト・ワールド(The Reflected World)

第十章 追跡

 ←第九章 啓吾  →第十一章 監視団派遣
 早朝。戸田治美は再び四ツ谷にある幡田俊哉の家へと向かっていた。昨夜のことを思い返すと脚の震えが再び襲ってくる。だが俊哉のことが気になってならない。あの時見た「あれ」は何だったのだろうか。多々良の話がその時以来脳裏を離れない。それよりも、俊哉を放って逃げ出した自分自身に対しての罪悪感に治美は苛まれていた。児童福祉司としての自分がどうこうと言うのではない。自分は子供を放って逃げた。弱者を前に突き出し、身代わりにし、自分は逃げ出したのだ。その思いが治美を何処までも追い詰めた。苦しくて、悔しくて、しかしそれでも恐ろしい。ただ、ここで俊哉のことから目を背ければ前に進めない。自分はそこからずっと足元を縛られて動けない。
「あの子を助ける。それが今の私のすべきこと」
 治美は下唇を噛みつつ、俊哉の家へ歩みを速めた。
 
 幡田美里がいた。インターホンの向こう側で冷たい声がする。
「今取り込んでいるんです。また今度にしてください」
 一呼吸置く合間も空けずに治美は問い返した。
「あ、あの、俊哉君は? 俊哉君はおられますか?」
「いません。もうお帰りください」
 ここで引き下がることは出来ない。先ずは俊哉の安否を確認しなくてはならない。異常なまでの力で玄関先に固まり、自分が引っ張ろうとも全く微動だにしなかった俊哉。いくら女性とはいえども大人だ。その大人が小学生の子供を全力で引っ張ったのに動かないなどあり得ない。あの黒い異物に包まれた俊哉。泣き腫らした両目の視点は宙に浮き、無表情でただただ呟いていた俊哉。

「お父さん……お父さん……」

 あの時の俊哉の無表情さが異様に感じられてならなかった。
「幡田さん、幡田さん!」
 何度インターホンのスイッチを押しても返答がない。治美は家の玄関に、そして窓に向かい、玄関の鉄柵を両手で握りながら大声で呼び掛けた。
「幡田さん! 俊哉君は、俊哉君は無事なんでしょうか? 昨日、昨日の夜、何かありませんでしたか? 変なことがなかったですか? お願いです、教えてください! 答えてください!」
 玄関のドアが力任せに開き、恐ろしい形相の美里が飛び出してきた。治美の前まで早足でつかつかと歩み寄ると、いかにも汚物でも見るかのような目つきで治美を睨み、怒鳴り付けた。
「止めて下さい! 警察呼びますよ!」 
 治美は美里の剣幕にひるまず、言葉を続けた。
「昨日の夜、俊哉君に何かあったんじゃないですか? あの子、泣きながら玄関前に出されていました。髪の毛も着ている服も濡れて汚れていた。あれ、お味噌汁ですよね? そしてお父さん、お父さんってずっと呟いてた。泣いて真っ赤になった目をして! それだけじゃない、私、見た……」
 治美ははっとして口を閉じた。虐待の容疑のある親に感情を剥き出しにして物事を言う態度は厳禁である。それは治美も十分に心得ている。だが、今朝の治美はいつものペースを完全に失っていた。自分の中の感情を抑えることが出来なかった。それは昨夜見た異常な光景のせいでもあるのだろう。しかし治美が言葉を呑んだのは、それが言い過ぎだとか、感情丸出しで言葉を捲くし立てた態度がいけないと思ったとか、そうしたことだけではなかった。「見た」? 何を? 自分でさえその正体が分からないのに、そんなことをこの母親に言うのか? そのことが脳裏に一気に電気のように走り抜けたのだ。
「ちょっ、 幡田さ……お母さん!」
 美里は治美の右腕を鷲掴みにすると、無言で家の中へ連れ込んだ。玄関のドアを暴力的に叩き閉めると、両手で治美の肩を掴んで玄関の壁に押し付けた。
「痛っ!」
「何を見たってのよ?」
 美里の顔が迫っていた。両目はまさに般若の如き鬼気溢れるものがあった。だが震えている。瞳が震えていた。
「ええ? あんたが一体何を見たって言うのよ? 何が分かるって言うのよ? ……あんた、子供いるの?」
 治美は感じた。どうやら、美里は自分の虐待行為を治美に盗み見されたとでも思っている様子だ。
「私がどういう気持ちで、どういう状況でやってきているのか分からないくせに一丁前なこと言ってんじゃないわよ! 他人のくせに人んちのことに首突っ込んで引っ掻き回すだけじゃないの!」
「ちょっと、ちょっと待ってください……」
 美里は治美の肩を押し付けている両手の力を弱めようとはしなかった。美里の表情が歪み、薄ら笑いを浮かべたように治美には見えた。
「躾なのよ。あの子が私達の家にふさわしい振る舞いをするように……家の躾なのよ。あんたにどうこう言われる筋はないの」
 躾? またそれだ。子供を虐げる親は必ずと言っていいほど「躾」と口にする。親になりきれない未成長、未熟ぶりを棚に上げて、マイナスの感情を子供にぶつけるだけぶつけ、挙句の果てに出してくる逃げ口上が「躾」。それが「大儀」だとでも言い出しかねない感じだ。
 美里の剣幕と、「躾」なる言葉を吐くその手の親達への怒りとが相乗効果を生み出し、治美の心に言いようのない怒りが込み上げてきた。治美は美里の手を払いのけると睨み返した。
「躾なら何やったっていいって言うんですか? 味噌汁やおかずを頭から掛けていいって言うんですか? あの子の額や頬には発赤(ほっせき)が複数あった。額には切り傷もあって血が滲んでいた。家にふさわしい振る舞いが出来るように躾をした? ふざけたこと言ってんじゃないわよ! ご近所からの通報があって私はここへ来たんです。貴女の怒鳴り声とお子さんの泣き叫ぶ声が酷すぎるってね。何があってもその子の最後の味方になるべきである親がああやって子供を追い込んでおいて、何が躾ですか! 自分の未熟さを棚に上げて言ってんじゃないわよ!」
 この仕事を始めて、心の中に沸々と溜まっていた鬱憤が一気に噴出した。確かに親にも色々と事情はある。親である者がこれまでどういった人生を歩んできたかということもある。自身が虐待を受け、親というものがどんなものか分からないまま親となった者もいる。だが、たとえどんな理由があっても、どんな事情があっても、一旦「親」となった以上、そこには避けられない義務と責任がある。正直な話、子供を生む前に「理屈」などは存在しないものだ。好きになった相手との子供が欲しい、それは自然なことである。自分が親としてやっていけるかどうかなど二の次になることも珍しいことではない。また親であっても最初から完璧な筈がない。子供と共に成長していくものだ。とは言え、たとえ未熟だとしても一線と言うものがある。人としてやっていいこととそうでないこととの一線。実に単純だ。だが、その単純なことさえもが出来ない者が増えている。そうした病んだ心が増えている。
「……帰って」
 治美を鬼のような形相で睨み返すと、一呼吸置いて美里はそう告げた。美里の荒く、そして長い鼻息が冷ややかな音となって、治美の耳に響いてきた。声が震えていた。
「俊哉君に会わせてください」
 治美は美里の視線から寸分たりとも目を逸らさずに言った。
 美里は治美の顔から視線を横に向け、壁際から離れると、治美に背を向けて言った。
「あの子は今入院中よ。救急車で運ばれて行ったわ」
「何ですって? 俊哉君に一体何を……」
 美里は背を向けたまま答えた。
「私は何もしていない! そう、あれは……そうよ、家の前で叫び声がしたの」
 叫び声? 自分の声だ、治美は思った。俊哉の真後ろ、自分の目前で真っ黒なものが突然いきり立った姿を見た時だ。思わず治美は手を口に当てた。それよりも「何もしていない」という美里の一言に、再び怒りの炎が心の中で業火となり始めていた。この母親は一体全体何をどう感じていると言うのだろうか。常識の範疇では考えられないと治美の心が叫んでいた。
「だから……あの子が何かやらかしたのかと思って、玄関のドアを開けたのよ。周りに迷惑とか恥さらしなことされちゃ堪らないから。そうしたらあの子……」
「『あの子』が何ですか? 何があったんです?」
「あんたに関係ないでしょう? もう帰って頂戴」
「病院はどちらです?」
 美里は何も答えなかった。反らした視線を一度も治美に合わせようとせず、両腕を前に組んで立ったまま、無言で顔を斜め前に俯かせていた。
 治美は数秒ほどその美里の後姿を見つめ、一度深呼吸をした後に口を開いた。
「またお伺い致します。その際は俊哉君の一時保護を理由での訪問となることはご了承下さい。俊哉君の体に日常的な暴行等が行われたと思しき外傷や痣等が確認された場合、それ相応の対応がなされるであろうこともあります。重ねてご了承下さい」
 治美はそう美里に告げて一度頭を下げると、玄関のドアのノブを回した。治美は最後に美里のほうに振り向いた。
「昨夜搬送されたんですよね。俊哉君の傍にいてあげないんですね」
「お願い。帰って頂戴」
 美里の最後の一言に失望しつつも、「またか」という思いを胸に抱きつつ、治美は幡田家の門を出た。

「ああ、まずいなぁ」
 治美は苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべながら、四ツ谷駅までの道を歩いていた。
 感情的になることは全く以ってのタブー行為である。子供を一時保護する際は、児童福祉法にて規定されている事項がある。そしてその流れに沿って行わなければならない。それに子供や保護者には一時保護の理由、目的、期間、施設入所中の生活などについて説明し、同意を取らなくてはならない。だがあの親、父親はどうか分からないが、母親が同意するかどうかは疑問だ。何せ世間体をやたらに気にする人物だ。仮に保護者が同意を示さなくても、対象となる子供の「福祉を害する」ことが認められる場合は、強硬措置を取ることも可能だ。「生命に危険が及ぶ可能性がある」場合なら尚更である。勿論、それは治美一人の意思でどうこう出来る話ではない。緊急性のあるケースでも必ず受理会議を開いて検討されねばならない。ただ、それを開いたにせよ、時と場合によっては児童相談所側の一方的な見解が保護者を誤解し、無理に子供を引き離すことにも結び付いたりする。
 しかし今回はそんな悠長なことを言ってはいられない。俊哉が入院中の間に何とかしなければ。親からの保護と言うよりも、治美の内心ではあの異物から守らなくてはという思いが強かった。そんなことが理由で受理会議がこちらの主張を認めるとも思わないが。
 俊哉の体に日常的な虐待の痕でも発見されれば別だ。それには何処の病院に搬送されたのかを確認せねば。そうした場合は病院側から連絡が入ってくるが、治美はそれをのんびり構えて待っている気には到底なれなかった。
 私はあの子を放って逃げ出したのだ。あの子を救うのは私の義務だ。

 帰りの中央線の車内で治美はぎょっとした。車内に吊り下がっている週刊誌の広告を何気なく見た時だ。

「新都市伝説!『呪い? メッセージ? 親を亡くした子供だけを襲う奇病。 発病前に見えるという亡き親の姿とは?』」

 これはまさに多々良が新宿で自分に「妙な話」だと言って語ったことではないのか? その週刊誌の発行会社を目で追った。そこは某大手メディアが親会社を務める出版社である。
 電車が新宿に着くと、早速治美はその雑誌を構内のコンビニエンスストアで購入し、その記事を探し出して読んだ。記事は真夏の怪談話として載せている雰囲気が大だった。

「死んだ親が我が子を不憫に思い、その魂だけをあの世へと連れ去ってしまうのであろうか? もしそうだとすれば、これは既に親のすることではない。現世の親による児童虐待が問題となっているが、この話が真実であれば、明らかにこれも虐待だとしか思えない。生きていようと、死していようと、親たる者に子供の未来を奪う権利は無い」
「現世の人間の心の歪みは来世にも響いているのであろうか?」

 この記事の内容に関心はない。ホラー話に興味はない。ただ、この話の出所を知りたかった。故人となった親の姿を子供が見ている? それを見た後には必ず子供が「もぬけの殻」のような状態になってしまう? 多々良も確か「死んだ親が会いに来た」という話をしていた。一体何が起こっているのだ? 自分が昨夜見た異形の黒い物を思い出す。背筋を電気の走る冷水が流れ落ちるような感覚を覚えた。
 治美は携帯を取り出すと、Webでグーグルのページを開いて社名を入力し、その出版社の所在地を調べた。この記事を書いたライターに会いたい。そのライターは何処までこの話の詳細を聞いているのだろうか。
 しかし先ずはあの子供だ。俊哉は今無事なのだろうか。治美は該当ページを保存するとWebを閉じ、多々良の携帯に電話をした。
「よお、どうした?」
「次朗? 仕事中のところごめん。ちょっと教えて欲しいことがあるの」
 治美は虐待を受けている疑いのある子供が搬送されたとする内容の連絡が、病院から入っていないかを訊いた。
「それって援助要請?」
「まだそこまで話が進んでいるわけじゃないけれど……」
「ま、そういったことは俺ら生活安全課の範疇になるからな。その子の名前は?」
「幡田俊哉。昨日の夜九時以降の搬送の筈よ」
「ちょい待ち……ああ、これか」
「あったの?」
「ええと、意識障害での搬送だけど、全身に痣や打撲傷が認められるってあるな。搬送先は……」
「お願い。今から時間作れない? 私に付き合って」
「へ? 今からか?」
 治美は焦りを覚えていた。
「今よ! あんた、私が仕事中なのにマックに呼び出したじゃん、今度は私の番よ」
「分かった分かった。じゃあ……」
「今新宿駅なの。そんなに時間掛かんないでしょ?」
「じゃあ今から出るよ。先に行ってて構わないから、信濃町駅の改札を出たところで待っていてくれ」
「分かった」
 治美は携帯を切った。病院が分かった。通報も入っている。これで話は一歩前進した。逸る心を抑えつつ今来た通路を戻ろうとして、ふと思った。信濃町駅は今来た方向を逆戻りすることになる。ここで一度改札をくぐらないで行けばキセル乗車になるのかしら、と思ったものの、そんなことを気にしていられない。治美は小走りで中央線のホームへと向かった。

 俊哉を担当した医師から、その体に残る新旧の外傷、打撲傷、発赤、痣、火傷の跡等、数々の状況の説明を、その旨の記載がなされた証明書に目を落としながら治美と多々良は聞いていた。その医師は顔色一つ変えることなく淡々と話しながら、目の前にある和菓子を口に運んでいた。
「いや失敬。食事がまだなもんでね。なかなか多忙で。食べられる時に何でもいいから食べておかなきゃ」
「はぁ……お構いなく」
「済まないね」
 そう言いながら、医師は菓子を再び口の中に放り込んだ。
「ただねぇ。あの意識障害の原因が皆目見当が付かない。体温の異常低下、瞳孔の拡散、全身筋肉の異常なまでの硬直とかが見られてね。ここへの通院歴がないからカルテもない。あの子の病歴も分からないから、一応一通り検査してみたんだ」
 医師は薄くなった白髪頭を左手で大きくさすりながら、大きく息を吐いた。そして早口言葉でも言うかの如く一気に言い放った。
「血沈、血算、白血球分画、総蛋白やアルブミン、LDH、GOT、GTP、その他諸々の血液生化学、血漿浸透圧、CRPや抗核抗体、様々なウィルス抗体検査を含む血清学的検査、血液ガス検査に尿検査、尿浸透圧、胸部頭部X線、CTにMRI、心電図に髄液、眼底検査、何やかんやとやったんだが全く分からない。異常が発見されないんだ」
 治美は医師のほうへ体を屈めて顔を近付ける姿勢を取って訊いた。
「それはつまり……生体的レベルでの異常が全くないってことですか?」
「そう」
 医師はグラスに入った麦茶を啜った。眉間に皺が寄る。
「何だ、ぬるいな。あ、でも異常がないってのはあくまでも現段階においての話ね」
 治美の座るソファの端で腕を組んで立っていた多々良が口を開いた。
「と言うことは、これから何らかの異常が発生するかもしれない、ってことですか?」
「その可能性はゼロじゃないさ。体力だってあのまま放っておけば減退するだろうし、検査で弾き出された数値だって、正常範囲ぎりぎりってのもあるからね。取り敢えず、目が放せない状況には変わりない」
 治美は貰った証明書を折り畳み、封筒に入れると自身の鞄の中に入れた。
「先生。俊哉君のこと、どうぞ宜しくお願い致します。何かあればその名刺のところにご連絡下さい。お手数お掛け致します」
「ええ、分かりましたよ」
 治美と多々良は医師と別れ、出口に向けて廊下を進んだ。
「しっかしまぁ、何回聞いてもやり切れない話だよなぁ。今の親ってのはどうしてまた……現代社会の歪みってやつか?」
「そんな簡単な言葉で勝手に締めないでよ」
 多々良の言葉を治美は戒めた。
「でも複雑な問題の原因は意外にシンプルだったりするもんだぜ」
 その言葉に治美は返事をせず、代わりに足を止め多々良に言った。
「悪い。もう一軒付き合ってくれる?」
「何処へ?」
「出版社」
「はあ?」

 その週刊誌の出版社は港区にある。受付で治美は、その雑誌に掲載されているゴシップ風の記事を書いたライターとの面会を求める旨を伝えた。受付係の若い女性は「お待ち下さい」と一言言うと内線で連絡を取ってくれた。多々良が治美の後ろに歩み寄り、耳元で小声で言った。
「何だってこんな所に?」
「次朗が昨日私に話してくれた、例の『妙な話』あったでしょ? あれ、何時聞いたの?」
「ああ、あの話か。親を亡くした子供がどうのこうのと言ってたあれだろ。先週だ」
 治美は黙って首を軽く縦に小刻みに振った。
「おい、あの話が雑誌にあったからって、その話をするために俺を連れて来たのか?」
「あんたはあの話を直に聞いた。何だっけ、精神科医だっけ? その話を警察に持ち込んだってことは、やはり何か普通じゃないことが起こっているってことの証にならないかしら」
 多々良は半ば呆れ返ったような表情で治美を見つめた。
「お前さ、オカルトとかホラーっぽい話って確か嫌いじゃなかったっけ?」
「嫌いよ。でも何かまともじゃないことが実際に起こっている。そんな気がしてならないの」
 あの黒い異物が俊哉を覆い包み込んだところを目撃した記憶が、再び治美の脳裏に映像として浮かんできた。
「ご案内致します。そちらでお待ち戴けますか。担当が参りますので」
 受付係の勧めるままに別室に入ると、椅子へ二人は腰を下ろした。まもなくドアをノックする音がした。治美は顔を上げた。見ると三十代半ばかと思われる男性が入ってきた。
「お待たせ致しました。私があの記事を書いた者です」
「お忙しいところ誠に申し訳ありません。戸田と申します」
 そう告げると、治美は自分の名刺を目の前のライターへ手渡した。
「児童……福祉司さん?」
「ええ。実は……」
 治美の話す内容にその若いライターは怪訝な表情を見せた。

 そのライターの話す内容は、多々良が例の精神科医である甲斐隆一の話と寸分違わぬ内容だった。話をここに持ち込んだのは甲斐本人だったのだ。そして、新たに聞いた内容によると、そうした子供達は最近になってほぼ全員入院したと言うのだ。症状は俊哉と同じである。一応、経過観察が目的での入院なのだが、今のところ状態が普段通りに改善される様子は皆無だ、とのことだ。
「あの、妙なことをお訊きするんですが……」
 治美は亡くなった親を見た子供達の傍で、何か「違うもの」を見たという話はないか、と質問した。そのライターは最初首を傾げていたが、おもむろに「そう言やぁ……」と話し始めた。
 その精神科医である甲斐に訊いても、患者の個人情報は法律によって、本人と縁のない全くの第三者への開示は禁止されているとのことで、甲斐が診察した子供の詳細は教えてくれなかった。そこで、止むを得ず該当施設の職員に対し、何か気になることはなかったかと質問したのだとライターは語った。そこで判明したことがあった。それらの施設の職員が「妙なものを見ている」という共通点が浮かんできたのだ。ただ、これは文脈に繋げようもないので、雑誌の本文からはカットされた内容であった。
「何と言いますか、『煙』のような『影』のような、何やら真っ黒い『もやもや』を見たって、施設の職員さんが言ってましたね。すぐに消えちゃったって皆言うんですが……」
「黒いもやもや……」
 治美の顔色が変わっていく様を多々良は見逃さなかった。

「何だって言うんだ、治美。お前、何を隠してる?」
 出版社を出て、駅へ向かって歩く道中にあったファミリーレストランに入り、多々良は日替わりランチを注文していた。治美のほうは食欲がなく、ドリンクバーのみの注文をしたのだが、飲み物を取りに行こうとする様子は全く見られない。
「あんな話に全く興味も関心も何も持つことのなかったお前が、出版社にまで押し掛けて書き手を捕まえて……何があった? 話してみろよ」
 店に入り、席についてからずっと俯き加減だった治美はゆっくりと顔を上げた。
「私も見ているのよ」
 多々良の眉が微かに動いた。
「見たって、何を?」
「だから……私も見たのよ。幡田俊哉少年の家先で」
「例の……『黒いもやもや』か?」
 治美は黙ったまま一度頷いて見せた。
「ただ、私が見たものは『もやもや』なんてレベルのものじゃなかった。黒い煙の塊って感じで……それが玄関の前で座り込んでいた俊哉君に覆い被さったの。私、急いで俊哉君の傍に行って声を掛けたけど、全く反応がなかった。次朗が話してくれた、例の医者が言ってた話とかなり似たような状態だった。それから……私の目の前で、俊哉君の真後ろであれが……」
 いきり立った異物に顔が幾つも浮かんだこと、俊哉の体を突き抜けて、実体があるのかないのか分からない「腕」を伸ばしてきて、治美に掴みかかろうとしてきたこと、更に記憶に焼き付くあの忌まわしい雄叫び、そして俊哉を置いて逃げ出してしまったこと、治美はあの夜のことを全て多々良に話した。
 多々良は顔をしかめ、首を横に振りながらたしなめるように治美に言った。
「おいおい、お前、何言ってんの? その、何だ、じゃあお前はその怪物めいたものをその目で見たって言うのか? そんなものが……」
「そんなものが本当にいるわけがない、空想の産物だ、お前は夢でも見てるとでも言いたいの?」
 治美の声が徐々に大きくなってきた。
「私があんたにそんな実にもならない嘘をどうして付かなきゃならないのよ? 私は見たのよ! そんなこと信じたくないけど、本当に私もそれを見てしまったの! あれ、一体何なのよ! わけわかんない……」
 怒鳴りに近い治美の声で店内の客の視線が二人に注がれた。
「あの子があんな風になってしまったのは……私のせいかもしれないの。私があの子を置いて一人で逃げ出したから……私が原因なのよきっと……」
 治美の前のテーブルに水滴が一つ二つと落ち始めている。治美は声を押し殺して泣いていた。多々良はそんな治美を黙って見つめ、それから治美のほうへ顔を寄せて穏やかに語りかけた。
「済まない、治美。何があったにせよ、そうやって自分を追い込むもんじゃない」
 治美は顔を上げたが、視線は多々良にではなく脇へと注がれていた。
「俺は見ていないから、正直何とも言えない。でも、もしお前がそこにいて、その少年を無理矢理引っ張ってその場を離れられたとして、お前の見たって言うそれがそのまま何もしなかったとは言い切れないだろう。お前自身にも何かしらが降りかかって来た可能性だってあったろうさ」
 多々良は治美に自分のハンカチを出してテーブルに置いた。
「だが、お前はその場を去った。だからこそ、こうやって何があったかを俺に知らせることが出来たんじゃないか? あの精神科医が言ってた話、正直俺はスルーしていたよ。ところがお前のその話だ。お前はゴシップとか怪談話とか、大嫌いだってことは俺も重々知っている。そのお前がそう言うんだ。嘘とは思えない。嘘を付く必要もないだろう。確かに何か妙なことが起こっている、そんな風に実感を持つことが出来た。これは決して無駄なことじゃない。何かが起こっているってことを自分以外のやつに伝えることが出来たんだ。そうでないと何も始まらないだろう?」
 治美は視線を多々良の両目に戻し、口を開いた。
「じゃあ、次朗はこのことにどう対処するつもり?」
 大きく息を吐いた多々良は困ったような表情を浮かべた。
「分からん」
「え?」
「だから分からない。こんなケースは全く経験がない。何をどうすべきなのか、何処から手を付けられるのか、それさえ今は分からない。皆目見当が付かない。だが……何か行動を起こすべきだとは思う」
 治美は多々良の目をじっと見つめていた。
「とにかく出来ることから始めよう。何でもいい、得られる限りの情報を集めることからだ。だからもう泣くな。そんな場合じゃなくなると思うぞ」
 多々良は涙を拭けと促すように、テーブルに置いたハンカチを指で指した。治美はそのハンカチを見ると、笑みを浮かべた。
「これ、あんた汗とか拭いたやつじゃない? 自分のを使うからいいわよ」  
「お前なぁ……」
 多々良も苦笑いを浮かべて、右手で頭の後ろを軽く掻いた。治美はそんな多々良の顔を見つめ、口元をほころばせながら言った。
「次朗。ありがとう」

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