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リフレクト・ワールド(The Reflected World)

第二部 第四十六章 伊勢谷の決意

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 伊勢谷は東名高速を黙々と車で移動していた。
 戸惑い。不安。しかし、それ以上に強い、「仲間」を助けたいと言う想い。
 恐れ。迷い。しかし、それ以上に大きい、振り返りたくない自身の過去との決別の意志。
 若き頃の、言うなれば特権。その一つが「無茶をする」ことかもしれない。無理と無茶は異なる。無理の後に残るものと、無茶の後に残るもの。後者のほうが失敗なり、破滅的な結果なりを呼び寄せる確率が高いのかもしれない。だが、その無茶を通してさえ、人は学ぶことが出来る。
 伊勢谷は自身の気持ちに、考えに、そして感覚に従順だった。その姿勢そのものに対しては、後悔の念は抱いていない。だが、自身を見初め、一人の僧として育て上げようとしてくれた恩師に対しての気持ち、想いは、わだかまりの残る居心地の悪さを伊勢谷に突き付けてくる。自らが正しいと思う、信じる道を歩む時、その周りにいる者の気持ちを「踏みにじる」ことが、そうした「犠牲を強いる」ことがある。その時点では、自身を正当化こそせよ、後になり。そのことが鎌首をもたげ、心を苛むことがある。それを避けようと、人はその気持ちに蓋をし、抑圧し、目を閉じ、更に先へと進もうとする。だが、その蓋の内側にあるものは決して消えない。伊勢谷がかつて師としていた者への想いは、まさに蓋をして見えぬようにした、自身の後悔の念そのものであった。
 トルソが強大な国家権力の元に封じられてしまった今、頼ることが出来るのは、そしてそれだけの力を持つ者は、己の力の身にあらず、紫雲が連れてこようとしていたトルソの仲間、そして伊勢谷のかつての師である。
 延暦寺の僧、靖徳の存在。
 半ば無謀とも思える、多々良の立案した「トルソ奪還作戦」を現実のものとするには、靖徳や、伊勢谷がこれから会うことになるグランシュの部下達、高速艇「アルバトロス」、で待機しているペイトン達クルーの力が必要であった。

 トルソが米軍部隊に拉致されたと言う知らせは、多々良からもたらされたものであった。最初、伊勢谷はその話に対し、当然のように疑念を持った。
「米軍だと? 何で連中がトルソを……いや、歌舞伎町にそんなタイミングで現れたんだ? トルソを捕まえて何をしようってんだ?」
「そんなこと俺が知るわけないだろ! 傭兵経験のあるあんたのほうが、まだ察しの付くところがあるんじゃないか? ただ……」
 電話越しの多々良の荒ぶる声が、次第にそのトーンを落としていく。
「ただ、何だ?」
「いや、以前の新宿での一件は国会でも採り上げられたんだ。で、取り敢えずテロ行為と言うことで片が付いたんだ」
「テロだあ? あれがか?」
 市街地を破壊し、死者まで出した「畏怖」の騒乱である。
「そうとしか収まりが付かなかったんだろ? テロとなりゃあ、外国の地で起こったことであろうと、あの国が黙って看過するとも思えない。それも何処かの小国じゃない、同盟相手のこの日本でのことだ」
「ああ……だが、何故トルソを狙ってきた?」
「知るかよ。だが、アメリカはトルソをマークしていた。アメリカ政府が出している、国際手配中のテロリストのリストに、しっかりとトルソの顔写真が載っていたのを、俺は見た」
「はあ?」
「しかもイスラム原理主義者だそうだ。極右のな」
「トルソがイスラム原理主義者って……そうなのか?」
「知らんよ! その気になりゃあ、監視カメラの画像を変なルートを通して手に入れることだって、あちらさんにとっちゃお手のものだろ? 街角にある複数のカメラにトルソは捉えられていたんだ」
「まるで映画だな、そりゃ」
「俺はトルソが、少なくとも極右の原理主義者とは思えない。何度も俺はトルソと話したが、そんな匂いは全く感じられなかった。そして、俺はトルソがあの黒い化け物とやり合っている所をこの目で見ている。そのトルソが、アメリカが狙い撃ちしてくるようなテロリストには思えん」
「ふうむ」
「アメリカは、ひょっとしたら、あの化け物との騒動について、俺達が想像する以上に関心を持っているのかもしれない。少なくとも歌舞伎町の一件は、一切捜査も何もするなとの上からのお達しだ。ウチの署長が言うには、こいつはもう俺達の手の届く範疇を越えた、国際問題なんだそうだ」
「国際問題? 何だよそりゃあ?」
「知らんつってんだろうが!」
 多々良の答えがつっけんどんなものになる。
「……で? 俺に『相談』って何だ?」
 苛々した気持ちを溜め息で誤魔化しつつ、伊勢谷は訊いた。
「トルソはあの後、俺に話していたんだ。化け物と交戦した時、自分でも何が起こったのかよく分からないみたいなことを。どういうことかって言うと……言うなりゃ、トルソは俺達からしたら『幽霊』みたいな存在だ……存在らしい……それが、俺達と同じこの世の人間と全く同じ存在になっちまった……あの化け物とやり合う中、そいつを何とかしなきゃならんって言う気持ちが、トルソの体を変化させたのか、それともあの化け物の影響なのか、自分でもよく理解できないってことなんだ。トルソは、その、元々は思念体なんだとか……」
「ほお?」
「いや、俺はこんなオカルトめいた話は好きじゃない。だが、あんなものを見ちまった後だしな……で、俺は、じゃあここで一度死ねば、また魂だか思念体だかになって、あっちの世界に帰れるんじゃないかって、冗談交じりで言った」
「で?」
「それで思ったんだ。何が原因でトルソがそうなったんだか分からんが、じゃあ、元の……思念体だか魂だか、元の姿に戻れば、米軍だけじゃない、どの国の軍隊でも政府施設であろうとも、捕まったって難なく抜け出せるんじゃないか、ってな」
「元の姿に戻る?」
「ああ。てか、自分でも何言ってるか分かんねえんだがな……」
「いや、待ってくれ」
 伊勢谷は思い返していた。紫雲から入った連絡。それは、トルソを捜しに、向こうの世界から使者が来たと言う話だった。そして、その仲間と紫雲が共に東京へ来るとも言っていた。伊勢谷はどうやって来る気だと訊いた記憶がある。その仲間、確かグラ何とかと言う名の者は、比叡山に張られている結界の影響で、その体の構成に変化が起こったとかで、紫雲とほぼ同じな「可視化」した存在になったらしい。そこで、二人で新幹線に乗ってここへ来ると言っていたのだ。何と眉唾な話だと思ったが、今こうして多々良の話を聞いていると、もしトルソが本当に来世から来た者で、本当に可視化、具現化された存在に、何かしらの力のせいでなったのであれば、その逆も可能なのではないか? と思えてきたのだ。
 そう。「可能」ではある。但し、それには伊勢谷一人の力ではどうにも出来ない。少なくとも、同じ力を持つ者複数の協力が必要だ。
 そして、伊勢谷の中で別の疑問が膨れ上がる。
 紫雲はこうも言っていた。グラ何とか……そう、グランシュだ、そんな名前だった、そのグランシュは一人で来たのではない、何人かの仲間と共に「飛空艇」で下りてきたとか。何とも妙な話ではあるが、その仲間達は今、その飛空艇の中で待機しており、グランシュは彼等の中ではトップの存在だとか。紫雲は如何にして彼等と接触したのであろう?紫雲はただの一介の僧である。そんな紫雲がこんな大事に一人だけで動いているとも思えない。ならば、彼らと接触しているのは延暦寺と言うことではないのか? それはたまたまそうなっただけのことか、それとも何処からかの情報を事前に手にしていてのことなのか? もし、事前情報があったとすれば……情報? 何の? 何処から発信された情報だろうか?
「多々良……思い当たる節がある。ちょっと時間をくれないか?」
「え? ああ……分かった」
「また連絡する」

 そして伊勢谷は電話を切り、しばらく考え込んだ。考え、迷い、悩み、そして選択した。結論に至った。その結論のため、伊勢谷は今、東名高速にて車を走らせていたのである。
「靖徳……俺を破門した師匠……俺が裏切った師匠……恩師……か」
 伊勢谷は思い詰めたような、しかしそれでいて、何処かしら決心が滲み出るような低い声で呟いた。
 そんな中、伊勢谷の乗る赤いRV車は、東名高速を小牧インターチェンジから出、そのまま名神高速へと入っていった。

   ※ ※ ※ ※ ※

 マジックミラー越しに、三人の男が立っている。三人はNSA(アメリカ国家安全保障局)に所属する諜報員だ。ロジャー・ヒル米国大統領の命令により、横田基地に護送された後拘禁中であるトルソの取り調べを監視、記録していた。そのトルソを調べている者は、同じくNSAの諜報員であり、心理学者の博士号を持つバウマンと言う男であった。そのバウマンが机の上に視線を落とし、半ば禿げ上がった頭を右手で何度も覆ってはさする姿を、ミラーの反対側にいる三人はくすくすと笑い、見詰めていた。
「そう言やあ、こんな感じの取り調べのシーンがある映画、あったな?」
「映画?」
「ああ、マイケル・ビーンとランス何とかって二人のシーンさ」
「ああ、覚えている。そんなのあったな」
「あのバウマン、似てないか?」
「あ、あのランス・ヘンリクセンにか? 確かに」
 二人の無駄話に、もう一人の男が笑いながら入ってくる。
「二人とも、その辺にしておけ。バウマンが気の毒に見えてくる」
「だな。しかし、あのトルソって男……ますます、あのカイル・リースに見えてくる。ああもごつくはなかったがな」
 途中から無駄話に入った男が訊く。
「何の話だ? カイル・リース?」
「お前、『ターミネーター』観てないの?」
「あ、ああ! あれか。確か、その後でシュワルツェネッガーが車で突っ込んできて……」
「そうそう。警官皆殺しのシーンになって……」
「お? バウマンが顔を上げた」
 三人の会話を知ってか知らずか、バウマンはミラーのほうを一瞥すると、再び目の前にいる、手錠を嵌められて椅子に座るトルソに視線を向けた。
「ええ、済まないが、もう一度名前を言ってくれないか?」
「トルソ。トルソ・カシウス・ケイオニクス、だ」
「トルソ・カシウス・ケイオニクス……ラテン語名かね?」
 バウマンにフルネームを復唱されたトルソは、些かむっとした表情でバウマンを睨み付ける。
「そう怖い顔をしないでくれ。これも私の職務なもんでね。気を悪くさせて済まないよ。で、君の国籍をもう一度言ってくれ」
「レグヌム・プリンキピス王政連合首長国だ」
 トルソは溜め息交じりで答えた。
「ふむ……王政と首長国、妙な組み合わせだが、何にせよそのような国名、私は初耳なのだが」
「だから説明している! この世界にある国ではない。そなたたちが死後向かうことになる来世にある国だ。信じようと信じまいと勝手だが、私はそこから来た!」
「ふうむ……どうやって来たと言ったかね? これは君の発言内容に違いが出てこないかどうかを確認させて貰っているんだ。違いが内容にあまりにも多い場合、中身がすり替わっていたり、肯定していた部分が急にずっと否定してきたと言うような内容だと、君の発言内容に信用が持てないのだ。だから、何度か聞かせて貰っている。さ、言ってくれ。如何にしてこの世にやって来たのだろうか?」
「我々にとって、そしてそなた達にとっても脅威となる、負の思念体と交戦中、奴によってここに引きずり込まれたのだ」
「その思念体は……『畏怖』と言ったんだったね?」
「奴がそう名乗った」
「で、その思念体は何を目的として、君をこの世界に引きずり込んだのだろう?」
「それは分からぬ。追い詰められての苦肉の策か、それとも私をカズキ達から引き離すためだったのか……」
「カズキ? それは誰だね?」
「この世界に住む普通の一般市民だろう。思念体の手によって、息子が生きたまま向こうへと連れ去られた。私は父親であるカズキが向こうに行くことを手助けした」
「何故、そのカズキと言う……日本人だね? そのカズキなる者の息子が、その思念体に連れ去られたのか、説明をもう一度頼むよ」
「……何時までこんな茶番を続ける?」
 トルソは一層険しい目付きでバウマンを睨み上げる。
「茶番とは酷い言い掛かりだね……ま、時間はいくらでもある。君と、もう一人、君の仲間なのかな? 君を捜しに来たと言う者の取り調べは、本国に来て貰ってからじっくりと、改めて行ってもいいのだがね」
 トルソの眉がぴくりと動いた。
「興味あるかね? もう一人の者……静岡県内で捕縛させて貰った。我々は、君達の素性についてもそうなのだが、あの黒いガス体のような物が何なのか、知りたいんだよ。君はあれを負の思念体と言っていたが、申し訳ない、そんなスピリチュアルな話には興味がないんだ。我々が知りたいのは事実だ」

   ※ ※ ※ ※ ※

 鬱蒼としているように感じられる森の中の一本道を、伊勢谷はハンドルを握っている。
 天台宗総本山、比叡山延暦寺。
 ここは認知されている姿以外に、裏の顔も併せ持っている。修験者の修行場であり、法力を操る特殊能力を持つ僧を育て上げる場でもある。彼等は西洋で言うエクソシスト的な存在であり、人の心や生命を惑わし危険に陥れる邪な存在から、人を守る言わば「防人」だ。現世と霊界との狭間に立ち、不必要な干渉を断つ防人……国境警備隊とも表現出来ようか。
そして、それはトルソやグランシュの所属する空間近衛騎士団も同じ存在と言えよう。彼等の存在理由は、現世と来世、そしてあらゆる世界、空間を破壊しようとするタナトスやセンチュリオン、その僕たる人の黒き思念の塊による干渉を断つことにある。人の心や感情、有意識に潜在意識、その全てを不安定かつ不自然なものとして破壊し、そうしたものの生まれる土壌となる世界を消さんとする「侵略者」から人を、世界を、彼等が破壊消滅させようとするもの全てを護ることである。
 修験者を輩出していた旧家の生まれである伊勢谷も、当初はそんな「防人」にならんとする道を歩んでいた。しかし、様々な修行の中、伊勢谷は一つの疑問を持ち始めていた。絶対的権力を誇る神への信仰、崇拝を求めている、その神の説く節理の順守を義務とする他宗教と異なり、仏教は、言うなれば宗教の型を借りた哲学である。また、宗教の特徴である神と邪との対立構図…太古のゾロアスター教におけるアフラ・マズダーとアーリマン、キリスト教におけるイエスとサタン、仏教におけるブッダとマーラ等の対立は、善の、又は本来自然とすべき心の状態と、それを乱す非道徳、煩悩的な心との対立関係を表しているのであり、そのような教義において、こんな「法力」なる力が必要なのだろうか、と言う疑問だった。やがて、その思いは魔なるものは人の心にある一要素であり、それに打ち勝つのも人の心、そこに神仏と言う「被依存的」存在は要らないと言う考えに結び付いた。伊勢谷はその考えに基づき、神仏を否定し、そして破門された。
 だが今、伊勢谷の目の前にて、異形の存在とも言うべき黒の異物、自他への破壊願望を抱える負の思念体が出現している。常識や科学では割り切れない、まさに悪鬼、悪霊とも表現出来る存在が現われ、一人の若き学生に襲い掛かり、また市街地を壊し、複数の命を奪い、また幸薄い子供の心を奪い続けている。持てる力をフルに発揮してこれと対峙したものの、伊勢谷の力では、防御する時間をほんの暫く稼ぎ出すのが関の山だった。
「全ては人の心が見せ、心が起こすもの」
 この考えは間違っていないと伊勢谷は思う。だが、それだけではなかった。地獄と極楽は人の心の中だけにあるものとする視点は、まさに地獄からの使者とも言える異物の出現で、根底から覆された。正体の分からぬものの存在は認めていたものの、この黒き思念体により、その視点は完全に打ち砕かれてしまった。
「心清浄なるが故に世界清浄なり。心雑穢なるが故に世界雑穢なり」
 靖徳が教えてくれたこの言葉は誤りではないが、雑穢なる心があのような超自然的なものを呼び覚ましたとも思いたくはない。
 伊勢谷の考えは、精神分析学やトランスパーソナル心理学に結び付くようなものであって、決して超常現象を研究の対象としているものではない。だが、その「対象」によって、何人もの人が傷付き、又は命を奪われた。
 伊勢谷は嫌だった。
 今回の件をきっかけに、これまで一匹狼のようにやってきた伊勢谷には、初めて「仲間」が出来た。延暦寺で修行していた頃に感じていた「他人との不協和」「常に一人」と言う感覚を、新しく出来た仲間達が忘れさせてくれた。一つの目標に向けて、共に行動する仲間。その仲間がむざむざ傷付いていく姿を、伊勢谷は見たくない。
 巡り巡ってやっと出会えた仲間を、伊勢谷は守りたかった。

 奥比叡ドライブウェイを走り抜け、車は横川(よかわ)地区に着いた。駐車場に車を停めた伊勢谷はエンジンを切り、大きく息を一つ吸って吐くと、そのドアを開けた。けたたましい蝉の声と共に、うだるような暑さがその全身を包み込む。そこから黙々と道を歩き、伊勢谷は奥へと進んでいった。
 やがて、伊勢谷の目の前に「比叡山行院」と書かれた二本の柱が現れた。砂利の少し奥には平屋の建物があり、読経の声が荘厳に響き渡っている。この辺は観光客も少なく静寂だ。
 伊勢谷は砂利を早足で踏みしめつつ、行院の前へと歩いて行った。数段の石段を上がり、そこで声を上げた。
「本望院靖徳和尚はおられますか!」
 読経の声は止まない。伊勢谷は再び声を上げた。
「私は伊勢谷公博、かつて徳安(とくあん)の僧名にて修行していた者です! 勝手を言いまして誠に申し訳ありませんが、靖徳和尚に何卒お取次ぎ戴きたい!」
 暫くすると、奥から一人の老いた僧が現れた。
「何と……徳安とな?」
「貴方は……ご無沙汰致しております、蓮行(れんぎょう)様」
 蓮行と呼ばれた僧は、眉間に皺を寄せつつ、伊勢谷を頭から爪先に至るまで、刺々しい視線で追った。
「よく……この山にまたおめおめと入って来れたものだ」
 蓮行は突き放すような返事をした。
「あの時は……大変な無礼を働き、誠に申し訳なく思っております」
 伊勢谷はそう言い、深々と頭を下げた。
「今更何だ! この罰当たりめが! 帰るがいい!」
 蓮行は、傍目から見ると実に穏やかな、好々爺的な表情を劇的に変え、伊勢谷を怒鳴り付けた。
「何卒! 何卒我が師なる靖徳和尚にお取次ぎ戴きたいのです!」
「我が師だと? よくもまあ、そんな言葉をぬけぬけと、その忌々しい口から出せるものだ! 帰りなさい! 出ていくがいい! ここはもう、お前の来る所ではない!」
 そう言い終わると、蓮行は踵を返した。
「お願いでございます! 危急の事態なのです!」
 伊勢谷はその場で土下座し、額を石床に擦り付ける位まで頭を下げて懇願した。
「知らぬ!」
 蓮行は伊勢谷の土下座姿を一瞥した後、奥へと戻っていった。
 伊勢谷は正座の姿勢を崩さぬまま、背をぴんと伸ばし、微動だにせぬままじっとそこで待ち続けた。石造りの床に接する膝や脛が痛み始める。しかし伊勢谷は、そんなことなど全く気になっていなかった。
 やがて外は明るさを失い始めた。夕刻のオレンジ色の光は徐々に失せ、紫めいた色を周辺に残すと、夜の闇へと変わっていった。蝉の声はそれでも止まない。行院の中に明かりは一切見えない。伊勢谷の背を照らす月明かりのみだ。

 どれだけの時間が経ったろうか。
 微かな物音と共に、伊勢谷と同年齢と思われる僧が一人現れた。
「徳安……」
 伊勢谷は返事をしなかった。ただ目を開き、自身の斜め前にある、土間と縁側の境をじっと見詰めている。
「恵心堂へ行ってください。靖徳様がそこでお待ちになられています」
 伊勢谷はゆっくりと顔を上げた。だがその時には、伊勢谷を徳安と呼んだ僧は既に行院の奥へと姿を消していた。

 夜の闇の中に伊勢谷の姿も消えた。そこに残るのはおぼろげな月明かりと、日中の暑さや湿気を忘れさせる、冷たい山の空気のみだった。


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